食べ物や行動に制限をかけると、ちょっとしたことでもちむどんどん
あらパパさんの朝ごはんの定番!
その時にある食材(地域(国内)の旬の生鮮食品)と残り飯を炒めて昆布ダシで軽く煮るだけの、なんちゃってリゾット風です!
今朝は、サケの白子とキノコと野菜とダシガラ昆布とご飯を炒めて昆布ダシで煮て、スジアオノリをふりかけた
エネルギー420cal、タンパク6.7g、カリウム440g、リン170g、食塩0.2g
調味料は一切入れてないので塩っ気はなく『なんだこの不味い飯は』と大概の人は言うだろう
とは言え、毎日食べていると塩っ気のない味にも慣れてくる
慣れてきた頃には素材それぞれの美味しさがわるようになり、とてもうまい
あるものだけの素材でシンプルに調理しただけの料理!
あらパパさんはそんな毎日の食事に満足しています
これからやってくると言われる食糧危機の問題やコロナ以外のパンデミック
近い将来起こる可能性があるとされる災害や核戦争
これらの影響で生産や輸送、輸入や輸出に制限がかかるとこれまでの食生活は出来なくなる
代替食品は、どのような時代になってもこれまでと同じような食生活をするための取り組み?
肉の代わりに大豆ミート(かなり進化している)
卵の代わりに豆乳加工(キューピーのほぼたまは卵その物という)
お米やナッツなどを原料としたバター(特許まで取られてる)
様々な方々や企業が日々努力されています
あらパパさん個人の考えなんだけど、アレルギーのある子供達に対しての代替食品を考えるというのは気持ち的にアリかな、とは思うけど…
例えば食糧危機が起きているのにステーキが食べたいとか、戦争中にオムライスが食べたいとか、津波で家が流されているのにバターたっぷりのトーストが食べたいとかって…
そんなこと言ってる場合ではないと思うんだよね
有るものをありがたく無駄なくたべる
これに尽きると思う
あらパパさん、腎不全と言う病気になって、改めて食べ物のありがたみが分かった気がしています
以前にラーメンの記事で紹介したけれど、欲には限界が無いのでどこかで制限をかけなければ欲望はいつまでも続いてしまうのです
代替食品が必要であるということは、食に対して欲望がとまらないことを意味しているのだと思う
欲望感が続いているうちは本当の幸福感は得られません
この頃のあらパパさんは欲望ではなく、渇望を感じているので、ちょっとしたことに幸福を感じてしまうのです
食べ物の制限だけでなく、行動の制限もあるあらパパさん
あらママさんの食べ残したおかず(普通の味付け)を一口食べただけでも幸福感を得られ、一日おきの楽しみになった少し熱めの入浴は天にも昇るような気分になれます
お風呂上りに飲む冷たい水の一口は、オアシス発見です
飽食時代の今、そこまで制限する必要ってあるのかな、とも思うかもしれないけれど、あらパパさんが子どもの頃は、日々の生活でのちょっとしたことに幸せに感じることって結構あったように思う
誕生日に食べるご馳走(今でいう普通のオードブル)やケーキ(バタークリームじゃなく生クリーム)に大興奮
風邪ひいた時、果物(リンゴのすりおろし、バナナ)を食べただけで特別な感じにもなった
新しいジャージ(アディダスとかプーマ)を買ってもらうだけでウキウキした記憶
田舎から近隣の市(釧路)へ出かけるだけでワクワク
ラジオカセット(ダブルカセット)を買ってもらったら学校で自慢できた
今はどうですか?
子供の頃の記憶にある興奮や幸福を日々の生活で感じることできていますか?
今日は少し変な内容の記事になってしまったけれど、あらパパさんが普段から思っていた思考と、友人からの贈り物『ニングル』の考えと、先日ラジオで聴いた養老孟司さんのお話しと、昨日のテレビで放映されていた代替食品の今を見て…なんだかリンクしたというかシンクロしたというか…説明すると話が長くなるのでしませんが…
大きく世の中が変わる!
単なる食糧危機であれば、あらパパさんは生き抜く自身はあるのだけれど、コロナ以上のパンデミック、災害や核戦争…
生活のライフラインに大きな支障が出るようであれば、あらパパさんのような透析患者が生き抜くことは…厳しいかもしれませんね
なので、楽しめる時におもいきり楽しんでおこう
一日に何度もちむどんどんできるように
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